【ネタバレ有】歌うシャイロック

2023年2月25日 博多座夜公演 17時開演(開場は16時15分)

博多座はいつもC席を取る。
お安いのはもちろんのこと、C席から観ても何ら問題なく鑑賞できるからに他ならない。東京ドームの天井席ほど遠くてオペラグラスが必要というようなことはなく、お気に入りの俳優さんのしわや毛穴の一つ一つまで念入りに見なきゃ気が済まないというのでなければ本当に何の問題もない。

さて、歌うシャイロックである。
正直、チケットを取っていたことを直前まで忘れてしまっていた。
博多座でチラシを貰って出演者を見ただけでかなりの豪華俳優陣である。

歌うシャイロックデジタルサイネージ画像

にもかかわらず、チケット代はC席4,500円。

普段C席は5,000円~5,500円であることが多く、人気演目であればC席自体が設定されないこともある。

この俳優陣でこの価格。とりあえず取ろう・・・と、その時のわたしは疲れて回らない頭で取ったに違いない。そして、そのまま忘れていたのだが、直前にTVで録画していた番組の途中で「歌うシャイロック」のCMが流れた。

じわり・・・と、わたしの脳みそのしわの中から「・・・チ・・・ケ・・・」と時間をかけながら記憶が溶けだしてきた。

あー!!チケット取った気がする!!」と、慌ててメールを確認すると、すでにチケットを申し込んでしっかりお支払いまで終わっていた。公演前に思い出せたのが幸いだった。

ブラック企業勤めの方にはあるあるではないかと思うが、ブラック企業で働いていると、とにかく頭が回らなくなる。なのに、無意識的に自己防衛機能が起動して身体と脳の機能の一部を突き動かすのか「多分生きていくのにはこれが必要だろう」というものを購入していたりする。

今回はそれが「歌うシャイロック」のチケットだった。頭が働いていない割には自分のお財布状況はきちんと思い遣っているあたりが「さすが自分」だった。

前置きが長くなったが、そういうわけで今回もC席で観てきた。
わたしは舞台やライブを観るときには少し前から席について徐々に席が埋まっていく様子を観察するのが好きだ。
今回は1ベルが鳴った時点で1階席8割、2階席7割、C席8割程度の埋まり具合だった。その後ちらほら駆け込んでくる人たちがいたものの、最終的には1階席で9割程度の埋まり具合だったように思う。年始の「天使にラブソングを」がほぼ満席だったことを思うと寂しい気がする。

開演前の場内には懐メロが流れていた。ミュージカル等の生演奏が入る舞台ではオケの方たちの音出しが響いているが、今回は生演奏はない。

舞台も幕は降ろされず、舞台装置が乗った空舞台がそのまま見えている。

舞台装置は組み合わせを変更すること前提で考えられたもので、組み換えることで場面転換できる。回り舞台のようなものは仕込まれておらず、舞台装置の移動は基本的に人力である。

さて、では、ここから物語のネタバレになる部分にも切り込んでいくことにする。ここからは完全に自己責任で読んでいただきたい。

「歌うシャイロック」はシェイクスピアの戯曲「ヴェニスの商人」が元になっている。

シェイクスピアというだけで「難しそう」というイメージがあるかもしれないが、今回は役名・地名こそ外国名だが「関西弁」で物語は進んでいく。

ヴェニスの商人自体はわたしもきちんと読んだ記憶はない。
が、しかし、「借金のカタに肉1ポンドを切り取らせる」という約束を果たせという金貸しに対して裁判では「肉は切り取っても良いが血は一滴たりとも流さないようにして切り取れ」と一休さんのとんち問答のような切り返しをして結局肉1ポンドを切り取られることはなかった・・・という場面は有名ではないだろうか。

その金貸しが「シャイロック」であり、金を借りたのが「アントーニオ」である。

では、そもそもシャイロックはなぜ、彼に金を貸したのか。
なぜ、彼は「金を返してもらう」のではなく「肉を切り取ること」にこだわったのか。

そういったところはシェイクスピアの戯曲では描かれていないが、今回はシャイロックが「ユダヤ人」であったというところがこの物語のキーになってくる。

「ユダヤ人」と聞いて現代のわたしたちが一番に思い出すのは「ホロコースト」「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」ではないかと思う。わたしは一時期YouTubeのおススメで「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の情報が沢山出てきていた時期があり、その時に「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」が実は「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制【絶滅】収容所」なのだと知って震えあがった。なにを絶滅させるのか?「ユダヤ人を」である。

では、「ユダヤ人」とは何か。日本に生まれたから日本人というような単純なものでないらしい。国籍も肌の色も関係なく「ユダヤ教」を信仰している人や親がユダヤ教徒だと「ユダヤ人」となるそうだ。わたしたちが「日蓮宗」だったり「浄土宗」だったりしても別に「日蓮人」とか「浄土人」とは呼び合わないからか、なんだか定義がふわっとしているような気もするが、そういうのが普通の人たちからしたら反対に「その国に生まれたから○○人」という方が【定義がふわっとしてる】のかもしれない。

話が逸れたが、今回「シャイロック」と娘の「ジェシカ」はしばしばヴェニスの人たちからも「高利貸し」「犬」等として下に見られることが多い。物理的に唾を吐きかけられるようなこともある。理由は単純に「ユダヤ人だから」だ。

「ユダヤ人だから」

これが彼らの免罪符だった。
だから彼の娘と駆け落ちをした上で彼女が持ってきたシャイロックの財産を使い込んだ上にその娘の心を折りまくったロレンゾーであっても「ユダヤ人の娘をキリスト教にしてやった(=救ってやった)」と思っており、根底には「ユダヤ人のくせに」という差別意識がある。

有名な裁判シーンも、シャイロック目線で見れば本当に酷い。
最終的にシャイロックの全部の財産の半分はアントーニオに、もう半分は国に取り上げられる。

理由は「ユダヤ人のくせに市民様に傷をつけ殺害しようとした」ということだ。

財産を取り上げられた上、命乞いをして改宗するならば生きていることだけは許してやろう等というのは非道が過ぎる。が、パンフレットの解説によればこれは400年前のシェイクスピア時代には「ユダヤ人には十分すぎる温情」であったらしい。

シェイクスピアの原作では「悪者のシャイロック以外はみんなで幸せに暮らしました」というエンディングだが、シャイロックはその後どうなったのかまでを「歌うシャイロック」では描いている。

ロレンゾーに裏切られ傷つけられ、死にたくても死ねなかった娘のジェシカは気が触れた状態でシャイロックの元に戻ってきていた。その復讐心から何としても「肉1ポンドで」と気合を入れて臨んだ裁判でシャイロックは
コテンパンにされ、財産は全て取り上げられてしまう。

さあ、どうしようか。

ラスト、シャイロックは子どもに戻ったジェシカと「エルサレムへ行こう」と旅立つ。小さな荷車にほんの少しの家財とジェシカを載せて「一歩一歩、歌いながら行こう」と、雪の舞う中を自分の足で歩いていく。同じ道を行く多くの傷ついた人たちと一緒に雪の中を・・・。

ラストシーンを観ながら(泣きながら)、本当にシャイロックはなぜ、こんなひどい目に遭わねばならなかったのかと考えさせられた。

笑いどころは沢山ある舞台だったが、その内側には「差別とは何か」という重く深く考えさせられるテーマを抱えている。薬だってそのままでは苦いが糖衣で包めば飲み込みやすい。この芝居は笑いで重いテーマを包んで観客に飲み込ませている。観た人はきっと今後そのテーマについて考えざるを得ないだろう。

シェイクスピアの時代から400年後の現代の解釈で現代の目線で再構成された「ヴェニスの商人」である「歌うシャイロック」

自分の価値観を変えるためにも機会があれば一度は観ておくべき舞台ではないかと思う。

【余談】
ラストシーンを観ながらこれはタロットの「ペンタクルの5」の図ではないかと思った。「ペンタクルの5」で検索してもらえば図柄はすぐに出てくると思うが、ケガをしている人が雪の中寒そうにしながら教会の前を通り過ぎている図だ。

「貧困・困難」を表す一枚で、「(教会があるのに)目の前のことしか頭になくて助けてと言えない」状況と解釈・解説している方がいらっしゃった。「教会があっても(迫害される異教徒のために)助けを求められない人たち」として今回のシャイロックたちと重なった。まさに「困難」を絵にかいたような受難の図である。